日記 映画

シベリア抑留経験者の孫が見た『ラーゲリより愛を込めて』

ご覧いただきありがとうございます

ここは私(みどペン)が、「育て辛っ!」と思う息子たちや、「クセ強っ!」と思う夫と、なんとか明るく楽しく穏やかに過ごすことを目指してあれこれやってみたり、やらなかったりする様子を、書いてみたり、書かなかったりするブログです。お時間とお気持ちの許す限りお楽しみください。

じーちゃん

映画の感想を書いていきたいのですが、その前提が長くなりそうな感じの投稿です。

 

上記のドライブ中に、ロケット基地ではばーちゃんの話、佐多へ向かう最中はじーちゃんの話で盛り上がりました。

今回はそのじーちゃん版の詳細として。

 

婿養子である私の父は「祖父母とは結構いい関係を築いていたっぽい」ということはこれまでにもちょこちょこ書いていましたが、

ある時期、父はじーちゃんと共に「岸壁釣り」にハマっておりました。

共に…というか、

「じーちゃんが釣りをたいそう楽しみにしてるから、とーちゃんがじーちゃんを連れていくのにハマってた」

というのが実態に近い気がします。

今回のように佐多の方まで行ってみたり、根占の岸壁の方へ行ってみたり。

私もお供してた記憶。

 

今回のドライブでも

「ここの港もじーちゃんとよく来たなぁ」

「あー、だったかもねぇ~」

と、そんな話で盛り上がりつつ。

  

当時のじーちゃんは、投げ方を教えてもらって、それを平日に練習して、週末の釣りに臨む、という感じでした。

とーちゃんは農作業を継がなかった勤め人の娘婿w

じーちゃんは誰も作らなくなった畑で投げ釣りの練習してたらしい。

(よくよく考えるとちょっとシュール?)

 

まー、しかし、ド田舎暮らしは信じられないくらい娯楽が少ないので、車に乗れない老人のすることといえば…

「家の前に椅子を出してたまに通る車を眺める」

を本気でやってました。

 

上記の記事でも書きましたが、ロケット基地があったり、途中で大規模なトンネル工事もあったので、極たまに超レアな車とか?工事系の車とか?…意外と面白かったりはします。

あと、フツーに知り合いが通って声かけてくれるとか。

ド田舎ではよくある光景(…だと思ってるんだけど。)

書いてて思い出しましたが、私も初日の出を拝むためのライダーたちが家の前を通る時にバイクの数を数えたりしてました^^;

7,80台くらい通ってた記憶…

 

話がそれる…

とにかく、そこには、婿と姑のおだやかな時間が…流れてたってことでしょう。

 

で、改めてじーちゃんについて思いを馳せてみたわけです。

 

基本的におだやかな人、じーちゃん。

じーちゃんは大正15年の生まれでした。

昭和元年じゃなくて大正生まれ。

太平洋戦争の生き残りってことで…

でも、あんまり戦争のことはしゃべらなかったし、周りの人も

「じーちゃんにはあんまり戦争のことは聞いちゃいけない」

とか言う、そんな空気の中で私は育ちました。

基本的に戦争について自ら進んで話すじーちゃんではありませんでした。

 

そうは言っても、周りから伝え聞いた話とか、私が自分で無邪気に聞いた話とかを総合すると…

 

「じーちゃん、シベリアで魂抜かれれちゃった?」 

という…

 

 

超ド田舎の、多分フツーの農家な感じの家の次男坊で、家のことはにーちゃんが継ぐだろう、と。

で、「さて、自分はどうしよう?土地はないぞ?」と考えたのかどうかは分かりませんが、

じーちゃんは結構勉強がイケるくちだったっぽいです。

私が聞いてる話では

「海軍主計学校(経理学校)に合格した」って。

どうも、東京まで出てきてたらしい。

戦争中のことなので、それがどのくらいのことか分からないけど、

あんな超ド田舎から東京まで出るって…

まー、そこそこ、結構すごいことだったんじゃないかな~と思うのです。

 

そんなじーちゃんから戦争のことで聞いたのは、

被服科とかいうところに配属されて、

「特攻隊の人の出撃前に一時的に着る立派な服を運んだ」

とか、そういう話。

実際の出撃前には脱がされるわけで…

脱いだ服とか、実際に着ていくボロい服とかも運んでたらしい。

「ぐらしかったどぉ」(かわいそうだったよ)

って言ってた。

 

あとは、

満州だかどっかに渡って、終戦になったらしい。

戦後すぐ、ちょっと偉い人に

「じーちゃんくんもこの船に乗ればすぐ日本に帰れるよ」

って厚意で特別に声かけられたらしいんだけど、当時のじーちゃんはそんな裏口乗船みたいなことしたらとんでもない目に遇うと思ってしまったらしく、その話を頑なに断ったらしい^^;

 

その結果が

「シベリア抑留」

と。

 

真面目なじーちゃんらしいエピソードだとは思う^^; 

 

ただ…代償はなかなか大きかったと言えるのではないだろうか。

 

2年ちょっとか2年弱?

『ラーゲリより愛を込めて』を見ると短いなぁとは思ったけども…

銀杯1個、賞状1枚で「はいごくろうさん」…っていうのは…ちょっとなぁ…

と、今頃になって私がモヤモヤしちゃう…

でも当時(私が子供の頃)のじーちゃんは、そんなことはほとんど感じさせなおだやかなじーちゃんでした。

焼酎が入るとやたらと饒舌だったりはしましたが^^;

それでも戦争の話とかじゃなかった。

飲んだ時は「ナンコ」っていう木の棒を使った簡単なかけひきの遊びが好きだった。

私が結婚するとき挨拶に来てくれた義理の父にも嬉しそうに勝負を吹っかけてたなぁ。

 

シベリア抑留のことで聞いたのは…

「ロシア人がたまにチョコくれた」

とか

「シケモクくれることもあった」

とか

「ロシア人も寒そうにしてた」

とか

 

映画に出てきた黒パンの話もしてたかな?

あとは

朝になったら亡くなってた人の話とかもしてたなぁ

あと、

寒すぎて木が固い

とか

あとロシア語をいくつか覚えたって話も聞いたんだけど、何だったかは忘れちゃったなぁ

「ダモイ」だったかは分かんないなぁ

犬の話してたような気もするなぁ

 

「そりゃぁ、寒かったよぉ!」

って。

 

元々文官チックだったじーちゃんにとって…

シベリア…

過酷だったと思います。

 

映画のように妻子がいた状態ではなかったんだけど、

2年ほどで戻ってきたじーちゃんは、実の妹がその姿を見て怖くて近づけない程だったらしい。

 

戦後は、長男さんが戦死したことにより、結局家督を継ぐことになって…

ばーちゃんと半分お見合い結婚みたいな感じで夫婦になったらしいけど、二人、仲は良かったです。

あの組み合わせ以外考えられないっていうくらいのおしどり夫婦でした。

若い頃は土木工事の仕事と農業と。

出稼ぎみたいなこともして、娘を3人の学費とかを工面したりしてたみたい。

  

主計学校のことを考えると…

「こんなはずじゃ…、俺、何やってんだろ…」

とか…

思わなかったのかなぁ…

  

私が知る限り、じーちゃんはあまり不平不満を言う人じゃなかったと思います。

(あの頃の人はだいたいそうかもだけど^^;)

 

 

妻がいて、子供がいて、孫もいて、ひ孫もいて、娘婿と釣り行って…

晩年は…穏やかな日々だったと…思いたい。

ばーちゃんとかーちゃんで自宅介護して最期も看取ってもらってね。

幸せなじーちゃんだった~

ってことになってます。

 

でもこうして考えてみると…

本音は見せないじーちゃんだった気がする。

記憶封印のプロみたいな感じだったのかなぁ…

 

本音…というか、じーちゃんの野心みたいなものが、やっぱりシベリアでなくなっちゃったんじゃないのかな~って。

 

…長いこと私はそんな風に思ってたのですが…

 

でも、戦時中の野心なんて状況に強制されて発動したものだとしたら…

晩年のじーちゃんがやっぱりじーちゃんの本質だったのかなぁ、と

ここまで書いて思い至りました。

 

私が小学生か中学生の頃、家族で日帰り旅行でその頃話題のつり橋に行ったことがありました。

宮崎の「綾の照葉大吊橋」だったと思います。

そこをみんなで「キレイ!スゴイ!」と盛り上がりながら当然のように渡ったんですが、

じーちゃんだけどうしても怖くて渡れなかったことを思い出しました。

腰がひけて動けなくなったじーちゃんを見て

「え?うそ???マジで~^^;」

という雰囲気にその時はなったと思うんですが、

あんな感じでちょっと臆病なじーちゃん、

あれが「じーちゃん」で合ってたんじゃないかな?

 

と、ふとそんなことを思いつきました。

じーちゃんがあんなに高所恐怖症だなんて知らなかったしね。

ついさっきまで車の中で箱根八里とか元気に歌ってたのにw

 

なんだろ、「渡りたくない橋を渡らない自由」みたいなことも主張できる平和な世の中に…暮らしてたってことじゃ…

 

都合よい解釈かな??

 

歌で思い出したんだけど、

ばーちゃん、よく「岸壁の母」歌ってなかっただろうか…

「岸壁の母」ってシベリア抑留引き上げ船を待つ母の歌…ってのを

私は今回初めてしっかり認識したからね^^;

ばーちゃん、分かってて歌ってたのかな?

歌うとき「じーちゃんにシベリアのこと思い出させるな」的雰囲気は皆無だった気がする^^;

別にじーちゃんもフツーだったし。

そこに「意識」はなかったなぁ。

私も「シベリア抑留経験者の孫」って書いたものの…たいがいよね^^;

そもそもじーちゃん、多分家族はだれも迎えに行ってないし(遠いし)

「ある日人相の変わったじーちゃんが突然帰ってきた」みたいなエピソードだったと思う。

 

じーちゃんのプロ切り替え力のおかげで私たちは戦後を幸せに生きてたところはあったのかもなぁ。

 

なので…

「シベリア抑留者の映画」

と言われると…ちょっと構えちゃうところがあって…

(関係者とも言えなくもないのにあまりにも無知すぎた自分を悔いてしまうのではないか、とか^^;)

公開されたころから存在は知っていたんだけど、つい最近やっと見たのです。

以下、映画の感想

『ラーゲリより愛を込めて』の感想

ネタバレ注意

 

この映画で印象的だったのは

安田顕さん。

現代ドラマの上司とか同僚とかのイメージ(しかもいい人系)が強くって、勝手にサラッとしてると思ってたのですが…

なんか…

驚きました。

(とてもほめてるつもり)

 

桐谷さんとかも

松坂さんとかも

よかったんだけど、

今回意外性というインパクトが安田さんにはあった気が…

(なんか、申し訳ない気持ちも沸くけども)

 

あと、なんで主演が二宮さんだったのかなぁとふと疑問に思ったのですが、

この映画、実話ベースで、実在の人物である山本幡男さんのお写真見て…

だいぶ寄せてるんだなぁと知ったとき、キャストに納得はありました。

どうやら二宮さんも祖父がシベリア抑留者だったとか。

なるほどなるほどです。

ベッドでのシーンとか、見てるの辛かった。

 

妻のモジミさんも…劇中で音読されるまでずっと字幕でモミジって読んでて…

変った名前だなぁ…ホントに実話なんだなぁ…

とか。

そんなことを思いながらの鑑賞でした。

 

実際、後半はずっと涙を流しながら。

ここまで泣き続けた映画は近年では記憶なし。

 

幡男さんの無念さとかモジミさんの悔しさとか、 

メッセージを届けた幡男さんの仲間たちの残りの人生はどんなだったろうなぁと思うとじーちゃんのことも思い出すし…

 

ラスト、現代の寺尾聰さんの回想から冒頭に戻って二宮さんのセリフ…

 

よーく覚えておくんだよ。

こうして久しぶりに家族全員でいられること

みんなの笑顔

おいしい食べ物

ハルビンの午後の日差し…

『ラーゲリより愛を込めて』

 

私たちもそれなりにいろいろな出来事に翻弄されて、

家族みんなで過ごす平和な時

を改めて大事に思えることはままあったけど

そういうのがドワーッと押し寄せてきて…

 

泣いたなぁ。

今思い出しても泣ける。

 

 

何気ない日常の幸せとか、当たり前すぎて気づいてもいない幸せとか、大事にしよっと。

今日は家族の好きなもの作って夕飯にしようっと。

そうやって私たちが明るく楽しく生きることがじーちゃんの供養にもつながるでしょう。

と、そんなことを思う映画でした。

 

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